"人間は死者ともコミュニケーションできるというか、死者とのコミュニケーションこそが人間的コミュニケーションの原型である、というのが私の考えである。
だって、人間以外の動物は死者とコミュニケーションしないからである。
葬儀というものを行うのは人間だけである。
「正しい葬送儀礼を行わないと死者が祟る」という信憑を持たない社会集団は存在しない。
「祟り」というのはすでにして(ネガティヴなかたちではあるけれど)死者からのメッセージである。
「死者がもたらす現実的効果」と言い換えてもいい。
「正しい葬送儀礼」を行うと、死者は「去る」。
「葬送儀礼」を誤ると(あるいはネグレクトすると)、死者は「戻ってくる」(「幽霊」をフランス語ではrevenant 「再帰するもの」と言う)。
そして、「正しい葬送儀礼」、つまり死者をして去らしめる唯一の儀礼とは、死者を忘れることではない(その点でサンヒョクは誤ったのである。「サンヒョクって誰?」という方はこの部分はスルーしてね)
正しい喪の儀礼とは、「死者があたかもそこに臨在しているかのように生者たちがふるまう」ことなのである。
手を伸ばせば触れることができるように、語りかければ言葉が届くかのようにふるまうことによって、はじめて死者は「触れることも言葉が届くこともない境位」に立ち去る。
死者に向かって「私たちはあなたといつでもコミュニケーションできるし、これからもコミュニケーションし続けるだろう」と誓約することによって、死者は生者たちの世界から心安らかに立ち去るのである。
というふうに私たちは信じている。
この逆立したコミュニケーションの構造が人間の人間性を基礎づけている。
コミュニケーションは「あなたの言葉がよく聴き取れない」と告げ合うものたちの間でのみ成立する。
「だから、もっとあなたの話が聴きたい」という「懇請」(solicitation)がコミュニケーションを先へ進める。
「あなたの言うことはよく分かった」と宣言したときにコミュニケーションは断絶する。
それは恋愛の場面で典型的に示される。
「あなたのことがもっと知りたい」というのは純度の高い愛の言葉だが、それは言い換えれば「あなたのことがよくわからない」ということである。
論理的に言えば「よくわからない人間のことを愛したりすることができるのだろうか?」という疑問だって「あり」なのだが、そんなことを考える人間はいない。
逆に、「あなたって人間がよくわかったわ」というのは愛の終わりに告げられることばである。
「あなたって人間のことがよくわかったから、結婚しましょう」というように言葉が続くことはない。
それと同じく、逆説的なことだが、コミュニケーションは「それがまだ成立していない」と宣言することで生成し、「それはもう成立した」と宣言したときに消滅するのである。
喪の儀礼も同一の構造を有している。
それは死者に向かって「あなたはまだここにいる」と伝えることによって死者を「ここではない場所」に送り出す機制なのである。
私たちは全員が「潜在的死者」である。
だから、葬送儀礼を生者の側において執り行うときに、私たちは「安らかに死ぬこと」とはどういうことかを先取り的に経験している。
「あなたはまだここにいる」と生者たちから告げられたときに、「私は安らかに死ぬだろう」
そういう信憑を私たちは幼児期から繰り返し刷り込まれている。
この信憑から個人的な決断によって逃れることはできない。
「オレはそんなのやだよ」と言ってもはじまらない。
この信憑が人間の人間性を基礎づけている「原型」だからである。
死者に対して「あなたは生きている」と告げることばは、それが真実な思いからのものであれば、「死者に届く」。
私のこのふるまいは死者を慰めるか?
私のこのことばを死者は嘉納するか?
私からのメッセージは死者に正しく伝わるか?
そのような問いをもって生者たちはその生き方の規矩としている。
死の淵を覗き込んでいる人間に必要なのは、おそらく「死んでもコミュニケーションは継続する」ということへの確信であろう。
数十万年前に人類の始祖たちがこのような信憑を採用して、それを社会制度の基礎に据えたのは、それが万人に例外なく訪れる死を苦痛なく受け容れる上でもっとも効果的であるということを知ったからである。
私はそんなふうに考えている。"
— 内田樹の研究室: 2006年06月 アーカイブ (via casiomasasi)
(via casiomasasi)
"百閒だって、借金そのものが良いとは思っていない節もある。それは例えば、金に困った際に、師である漱石からもらった軸を人手に渡した時の情けない気持ちを描いた<貧凍の記>のような作品として現れる。だが一方で、<無恒債者無恒心>では「お金の有り難味の、その本来の妙諦は借金したお金の中にのみ存する」とも書いている。多分、どちらも本音だろうと思う。しかしこれは百閒という人物のなせる業だったのかも知れないが、高利貸しや債鬼との付き合いが長くなるにつれて奇妙な人間関係が生まれてくる。<歳末無題>とか<年頭の債鬼>や<鬼の冥福>とか。その類いの作品で僕がいちばん面白かったのは<うまや橋>という作品である。関東大震災で被災した時も、相手の高利貸しの安否を気にしてみたり、かと思えば高利貸しの息子の買い集める本が何故か百閒の本ばかりだったりと。取り立ては厳しくとも、それでも人と人との繋がり方が現代よりも密だったからなのかも知れない。"
— 内田百閒<大貧帳>を読んで。:今日ふと心に浮かんだ考えは。:So-netブログ
"管理人が出会ったシンボルスカは管理人だけの彼女であり、彼女の詩であり、ほかの読者はまた彼だけのシンボルスカと出会うのだろう。個人的な事情を少し書くと、死にたいとでもいいたくなるような塞ぎの気持ちで池袋を歩いていて、鞄のなかにこの詩集が入っているという一事だけが希望のように感じられた、そんな夜があった。"
— 『終わりと始まり』 ヴィスワヴァ・シンボルスカ epi の十年千冊。/ウェブリブログ
"1970年の日本、、、の映像を見ると絶対に『懐かしい』というか、
もっとはっきり言ってしまえば『古さ』というものを、
映っている街並や人々のファッションやデザインから感じるはずです。
しかしながらカップヌードルのパッケージだけは、
その『古い映像』の中でも『今日の日本の風景』の中でも
どちらにも馴染んで違和感なく存在しているわけで、、
そのこと自体が大げさなようですが、
ある種、奇跡的なことのように感じてしまうんですね。"
— Design Door
"文化庁長官就任時、友人の遠藤周作から権力志向を揶揄され「お前が文化庁長官になって俺らに何か得があるのか」と言われた際、憮然として「地下の生協で靴下なんかが安く買えるらしい」と答えたという。"
— 三浦朱門 - Wikipedia
"ブロックは双方に作用するため、ブロックした相手もあなたに表示されなくなります。"
— Facebook ヘルプセンター | Facebook
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先日、先輩の小朝師匠が教えてくれました。「古典」=「クラシック」でしょ? 「クラシック」の語源は「クラス」だよ。ある一定のクラスにまで達することが「クラシック」と呼ばれる条件なんだよ。
つまり「古典落語」をやるには、演じる力が絶対に不可欠であるということです。
三遊亭円生師匠。祖父の柳家小さん。古今亭志ん朝師匠。古典の名手と呼ばれた亡き先輩方は「圧倒的な演技力」をお持ちだった。その演技の凄さでお客さんの心を掴んでいた。それは勿論、これから古典をやろうとする全ての落語家にとっても条件は変わらない。
しっかりとした技術を物にしたいと私は思っています。
そして「新作」です。これが落語家の元々関わって来た道です。現代を追いかける、新しいことを喋る。それが「噺家」と呼ばれる我々の本来の姿だったんです。 ラッパ屋を主宰する作家の鈴木聡さんに教えて頂きました。
本を書くということはね、自分がこれが面白いと思うことを一つ一つ決定して行く作業なんだよ。
つまり、一行一行文章を書いて行くという行為は、自分は人間をこう見てます。自分はこんなことを面白いと思っています。ということを告白しながら進んで行く作業だということです。
「新作」と関わるとはまさにこれで、自分で落語を作る多くの新作派の人々は、日々そんな思いの中で落語と戦っているんです。
「古典」か「新作」か。
僕は両方やりたい。
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— 柳家花緑(やなぎやかろく)の 続・落語は楽語!|ローソンチケットのチケット販売サイト「ローチケ.com」
"露伴は、貧富の格差が激しくなった明治時代に、物質的豊かさより、求道的な精神的価値を重視した作品を書いた。本人も一生貧乏暮らしだったという。小説「五重塔」は、大工の腕に自信をもつ十兵衛が、貧しい生活ぶりのため蔑視されるが、金銭にこだわる世間の風潮に逆らって、どんな大嵐にも倒れない五重塔を建て、意地を見せる物語である。そうした人間の一途な情熱を愛した露伴の、寂しがりであった一面を娘の文は書いている。静かな家族団欒を、露伴も喜んでいるかも知れない。"
— 「詩人回廊」 : 幸田露伴の小説「五重塔」の縁の家族団欒 伊藤昭一 - livedoor Blog(ブログ)
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自分で面白くて仕方がなければ、おのずと人にも語りたくなります。そうやってストーリーが組織に浸透し、実行される。日本電産の永守重信社長、ファーストリテイリングの柳井正会長兼社長、セブン&アイホールディングスの鈴木敏文会長、ローソンの新浪剛史社長、こうした優れたストーリーテラーはみなさん「しゃべりたがり」です。
逆にストーリーをしゃべりたがらない経営者がいたとしたら、その人には面白い戦略のストーリーがないということなのです。よく、自社の戦略について「我が社の生き残りのために、○○をせざるを得ない」という言い方をする経営者がいます。ストーリーは、「生き残りのため」とか「せざるを得ない」という発想では出てきません。
戦略はいやいや作るものではない。思わず人に話したくなる面白い話をする。一言でいえば、戦略を作るということはそういうことなのです。
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— ブックオフを急成長させた“出し切り”という戦略ストーリー:日経ビジネスオンライン (via yukio)
(via kumemoto)